うなぎコラム

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【鰻料理の歴史】その5

堰
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初の計画的な鰻の養殖

初の計画的な鰻の養殖は服部倉治郎によって明治12年東京市深川区千田新田(現東京都江東区千田) に於いて行われたそうです。

服部家は代々続く長州藩御用の「鮒五」と言う川魚問屋で、その時代としてはかなり裕福な町民であったようです。千田新田は享保年間に開発を始めた埋立地で、深川十万坪とも言われる広大な土地でありました。 服部家はこの中に田畑と池を所有する地主でもあったようです。

江戸末期より深川周辺では町民・下級武士による金魚の養殖が盛んに行われており、服部家も金魚・鯉・ 鮒の養殖を行っていました。倉治郎の最初のテーマは鼈(スッポン)の養殖でありました。 慶応2年倉治郎の父が飼育に成功、明治8年に倉治郎が人工孵化に成功、しかしスッポン料理の本場は上方で、関東ではあまり需要があったとは思われず、彼は別の養殖にチャレンジしていきます。

倉治郎は川魚問屋としてうなぎの商品価値を熟知していた上、うなぎの幼魚であるクロコがとれても商品とならず、捨てられたり川に戻されたりしていることを熟知していました。 そこで倉治郎は自分の土地である千田新田の2haの荒れ地の池に、幼魚のウナギを放して養殖し成魚にして販売することを始めました。

これにより江戸時代には季節的な漁獲量の変化により不安定であったウナギの供給が安定的に供給されるようになりました。 またスッポンの養殖に比べ設備投資が少なく(初期の養鰻には池さえあれば後は不要)、需要は多く、大変当たった養魚でありました。

倉治郎は時の政府の勧業振興策に乗り、明治16年には合資会社千田養魚場と言う会社を興し、その後 水産伝習所(後の東京水産大学)の淡水養殖実験場の研究員となり、千田養魚場に東京大学の箕作博士、 石川博士を招き、二博士は鰻・鼈の研究をすすめ世界に英文で発表しています。 また自身も水産博覧会・内国博覧会など12回もの表彰を受けています。

たまの鰻をいつもの鰻に

今回は「鰻料理の歴史その5」についてお話しました。
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やはり配達をウーバーに委託しますと、お店で食べるよりは高額になりますが、

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